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キリスト教問答         葉山 聡 2006 Aug-25

問 先生は数ある宗教の中で、キリスト教の神のみが存在すると力説されますが、どうしてでしょうか。

答 まずそんなことを人に問う前に、自分が文章をどの程度読めるのかを考えなさい。聖書の文章が含有している美がとてつもない量であることを感じることができますか。
それができないならまだ聖書を開いてはならない。文学やアートの修行を二十年してきなさい。いきなり文の意味をとってはならない。新聞記事を読むように聖書を読んでいてはいつまでたってもものになりません。文章のにおい、色合い、手触り、書いた者の息使いが解るようになって初めて聖書を読めるのです。ある教典について聖霊が関与しているかしていないか、それを見極めることのできるポイントは文章の深層にあります。そこまで一気に切り込めてこそ、神の存在を感じ得ます。
 また目の付け所を書きましょう。
神のアイデンティティは創世記から黙示録まで保たれている。最初エデンにあってアダムと神との関係は、それこそアダムが物を落としたら「おっさん、それとって。」と言えば「お前ねえ。」とか言いつつ拾い上げてくれそうな程親しい。時代は変わり人の罪の蓄積により、神は人への強い猜疑心に悩まされるようになる。神と人との関係は疎遠になる一方であり、遂にキリスト・イエスの時代にあっては、神の主な仕事は人の子らの罪の痛みに耐えることになってしまう。しかし神の身になって考えれば、主のお気持ちと行い、ご計画の全ては理解できるはずです。神の身になって読む、これがコツです。
  
問 命の書に名のある者はどれくらいいるのですか。

答 現代日本の場合、命の書に名のある者は私の経験則からいって百人に一人よりは多く、十人に一人よりは少ない。二十五人に一人位でしょう。これは地域と時代によって調整されています。イエス・キリストの時代では五人から十人に一人位でしたが、現代にあっては含有率が低く押さえられています。このように天の国に入る者が人口の多い時代に偏らないように調整され、またこの結果時代が進むほど、加速度的に世の中が悪化していくことにもなります。地域的にはイエス・キリスト時代までのユダヤ社会にあってはやはり命の書に名のある者の割合は多く、現代にあってはユダヤ系の移民が古代に或いは近現代に多数移り住んだ地域には多めであり、そうでない地域では少な目です。即ち現代の国土の割り振りで言うならば、イスラエル、アラブとその周辺地域、日本、ヨーロッパ、米国には多く、中南米、アフリカ南部と西部、アジア諸国には少な目です。

問 人の善悪は相対的なものではないのですか。その運命を天国と地獄に割り振り、そこに永遠に閉じこめるとする多くの宗教の教義は承伏しかねます。人類を二分し、間に自分たちの教義を滑り込ませ、権威ある絶対者を定義し、地獄への恐怖感と天国への幸福感から従わせる心理構造を作るのが宗教文化の本質ではないのか。

答  一見どう考えてもそのように思えます。しかし嘘の固まりのような時代に生まれ、嘘つきばかりの中で人格を形成し、嘘ばっかりの世の中との関わりの中で人は善も悪も行うのです。善き霊魂を持って生まれた命の書に名のある者も悪に染まり、命の書に名のない悪者も善人として人格を形成し善行をなすようになります。これを中和反応と私は呼んでいます。この中和反応は時代が進むほど、また先進国ほど高度に発生していきます。しかし人の霊魂本体を知る神はある人の霊魂による善に報い、ある人の人格によるが霊魂とは無縁の善行を無視されます。人は霊魂を正確に反映した人格を形成しているのではない。
そのことを考えてください。サルトルの「聖ジュネ」その他、人の精神史を追尾した作品、そこからくる自己欺瞞の概念や、彼の親友の精神病理学者レインの「引き裂かれた自己」「自己と他者」といった著作はこうした考察に有益な補助資料となります。

問  結局我々はキリスト教会に通いクリスチャンとして生きることが一番大事だということですね。

答 かつて神は教会を自分の体とまで言われ、聖霊に満たし、守護天使に保護させておられました。しかしその後のキリスト教会の歴史をご覧なさい。主を裏切るどころが何人も思いつかないほどの悪を行い、悪の結社として悪に栄えてまいりました。主は現代のいかなるキリスト教会にも信頼を置いておられず、これからできてくる教派まで含めて全ての教会の信仰に無効をしかも恒久の無効を宣言しておいでです。教会で信仰を得ることはできません。未来永劫ただ一人の人間も教会で信仰を得ることはできない。いっさい無い。天地がひっくり返ってもそれだけはおこりません。人は教会を遠く離れたった一人で主の御前に立つべきです。フリードリヒの「浜辺の修道僧」というタブローをじっくりとご覧なさい。また小説ならベルナノスの「田舎司祭の日記」は示唆に富んだ作品です。

問 人類は何故神は存在しないと考えるのですか。

答  そう考えないと気を楽にして生きられず自殺念慮に苦しむからです。二十人に一人しか命の書に名のある者はいない。しかもそれが誰だかも解らない。後の者は最初からゲヘナに行く運命です。そうした人間集団が神の存在を納得できるはずがありません。それは受け入れがたい真実なのです。人は神の存在を受け入れるとき、必ず自分は救済されるという理屈を立ててから受け入れます。中世まではそういう時代でしたが、神概念を保持し続けること自体に限界が来ていました。そこで都合よく発生してきた進化論という捨て場に、それまで背負っていた神を一気呵成に捨てたのです。後はそれに合わせて世界史を書いておけば、万事うまくいきました。以後神は宗教の中のキリスト教の中に文化、人類の知の遺産の一つとして片づけられました。

問 人が類人猿から進化したと考えるのは今日常識ではありませんか。

答 私は小学校一年の時に、サルから人間へという学研「学習と科学」の小冊子の付録で初めて進化論を知りました。その時自分が今まで読んだどんな童話よりも良くできた童話だと感じました。しかしそれが真実として書かれていることを知って愕然としました。
このような複雑な深い我が心がどうやってサルから進化しようか、と疑問に思いました。世の多くの人はそうした学習をする前に自分の思想も独自の感性も個性も持たず、その思想に圧倒され手なずけられてしまうのです。
 確かに日欧にあってはそうですが、米国では殊に南部西部を中心に神が七日間で世界を創造したと考える人は多いのです。全国民のちょうど半数が神の実体としての存在を信じ、半分が否定しています。知識人の大半は反対派ですが少数ながら神の実在を信じる者もいます。

問 創造科学について教えてください。

答 創造科学は聖書の真実を前提として形成される余り信用のおけないこじつけ科学であり、米国サンディアゴの創造論調査研究所が中心となっています。入所に当たり神の存在を前提とした科学を形成することを宣誓させられます。皆学位ぐらいは持っていますし、一般的な大学で教職に就いていた者も多いのです。退役した前所長のヘンリー・モリスが数多くの著作を残しています。その中には確かに私が読んでも正しい部分も多いのです。ここでは小進化は肯定されますが、種族間にまたがる生物の進化は一切否定され、その上創世記や歴代誌の系図を絶対視しますから、地球はまだ誕生して6000年しかたっていないとされます。私も地球ができてから一万年は経過していないと考えています。

問 放射性物質による年代測定で紀元前12000年前の化石もいくらでも確認されているはずですが。

答 実際京大による測定でも一万年をこしたカーボン14による年代測定は残量が少なすぎて、環境因子による減少と区別できず信憑性は著しく少ないと言われています。それは地質学的な推定と合わせ総合的な考察からの年代推定の筈です。即ちその年代決定は循環論証を経て決定されていると思います。

問 先史人類の化石は進化を雄弁に物語っているではありませんか。

答 アウストラロピテクスは類人猿であり、ネアンデルダールはヒト即ち古代人であると思います。よろしい身近な人物を例に挙げましょう。京都大学前総長長尾 真氏の顔を真横から見たことがありますか。彼の頭部を真横からカメラで撮影した経験はありますが、残念なことにレントゲンは持っていません。しかし実にネアンデルダール長尾というべき得意な形状です。昔はああいう頭部ばかりだったのです。ネアンデルダールと我々の呼ぶ人たちは、実は長尾のように聡明で、彼のように公用車ではないが、それでもその辺を半裸で走り回り、コンピューターが専門の彼が京大のインフラ整備をしたように、その辺の集落を作ったり通信網を整備した業績もあり、毎日仕事に忙しかったのです。全然遜色ないのです。現代人は誤解している。それでも違うと言い張るなら、頭部のレントゲン借りてきて証明してやりますよ。ピタリと符合しますよ。前総長は頭部の形状こそいささか流行遅れではあったが、頭の中身は最新鋭、まさに京大のために一身をなげうたれた方です。学問の発展のためなら例え火の中、水の中、放射線の中、こころよく撮影させてくださると思います。


長尾 真氏 葉山撮影 松本紘副学長退官記念パーティーにて

問 聖書が非科学的であるのは、何も進化論問題に限定したことではありません。例えば聖書は病気を悪霊によるものと考えていますが、そのことについて、あなたはどう考えるのですか。

答 まず第一に福音記者は、すべての病気を悪霊によるものと考えていたわけではありません。ペトロの姑が高熱を出し、イエスに癒された場面があります。この場面でははっきりと病気が悪霊によって起こったことが記載されています。このように悪霊による疾病の発症というものもあるのですが、それと無関係に疾病が起こることもあります。尚聖書は特定精神疾患については「悪霊にとりつかれた」と見なし、それ以外の疾病については「悪霊の影響による」と明快に区別しています。

問 聖書は精神分裂病や癲癇を悪霊にとりつかれたものと見なしていますが、あなたはそれについてどうかんがえているのですか。

答 通常の人間はその人の霊魂と脳が一対一で対応しており、霊魂の支配によって、経験を通して、ニューロンネットワークが形成され、それが人格となってきます。霊魂の力が、その人のアクソンが伸びる方向を決定していると私は考えます。
しかし、統合失調症の患者においては、霊魂と悪霊が存在しており、それとその人脳は二対一で対応しているのです。ですので、その人の霊魂による支配だけではなく、悪霊による支配も受けており、悪霊によっても、アクソンの伸びる方向は決定されて、精神がその統合性を失うことになってしまいます。
癲癇もいわゆる症候性と定義される、脳の障害によって二次的に発生したものはそうでは無いのですが、生まれつきの癲癇の中に、出産上も胎児の間の問題によるものでもないものがあり、そうしたものの中には、悪霊に取りつかれているものもあります。
しかしながら、悪霊に取りつかれている取りつかれてないという問題は、現代の精神科による病名の診断と完全に符合するというものではありません。

問 聖書の中には女性差別の思想が見られますが、あなたがこれについてどう考えますか。

答 確かにパウロの書簡の中に、女性に対する区別ははっきりと書かれています。しかしながらそれが、現代の女性差別を肯定するものではなく、社会的な権利において、男女が対等であるべきだと考えることは、御心にかなうことであります。しかしながら、忘れてはならないことは、神はあくまで女性を助け手として作られたのです。男女を単に性別の違う同じ存在として作られたのではない。
そのことを受け入れることは、現代におけるどんな女性差別を受け入れることよりも、女性にとってつらいことであるのかもしれません。しかしながら、現代におけるどんな女性差別をも上回って、神は徹底的に女性を区別しているのです。神は女性に対して、男に対して、与えるような信頼を与えておられませんし、はっきりと、その心の清さにおいて、男よりも劣った存在と見なしておいでなのです。そのことを認識せず、性別が違うだけであって、男女は全く同じものであるとする、現代人の考え方に私が妥協することは絶対にできません。


問 他の宗教についてのお考えをお聞かせ下さい。

答 最も重要なものは言わずもがな禅仏教です。キリスト教の伝統よりも優れた修行の形態を保持していますし、その教えは開祖釈尊の比類のない能力もあり、真実の宗教であるキリスト教の影絵とも言うべき類似性を示しています。聖霊も神の教えもないところで、これほどまでに神に肉薄し得た才能と努力に対し、いくら賞賛しても賞賛しすぎることはない。決して我々が僭越に振る舞うべきではない。むしろ座禅断食その他修行の方法を積極的に取り入れることが正しいのです。しかしながら心の中で必ず決着をつけておかなければならず、中心を動かされ混乱し仏教に帰依するようなことがあってはならない。厳に自戒すべき所です。また国内にあっては先の大戦中反戦を通して、多数の犠牲者を出したキリスト教に対し仏教は協力的でした。これは仏教における暴力否定の倫理が、キリスト教程にはしっかりとした教義の中に体系づけられていないことを示しています。見逃してはならない構造上の欠陥です。イスラム教に関してはコーランの行間には宗教による民族支配の野心や邪悪な心の乱れが読みとれます。しかし教養として通読しておくことは大切です。また我々は一切の新宗教に対し警戒し心を閉ざすべきです。既成宗教がいかに腐敗していようとも、新宗教を作る必要はありません。邪悪な金儲けか妄想狂、インチキ売名男の類です。しかしイエスも最初は新興宗教だったではないですかなどと真顔でいう人がいます。やはりある一定の才能のレベルのない人は宗教の勉強に向きません。宗教の勉強ではカンの冴えと人間観察眼は生命線です。


問 人類は何故存在しているのですか。

答 まず創世記冒頭を熟読してください。
最初 1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
とあります。神はただ一人で長い歳月を過ごされました。
2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
と書かれています。
この独りでいるのは良くない、という言葉に神御自身の胸中が表現されているのです。
誰も注目しませんがこれは聖書中最も重要な発言です。独りで生きるのではなく、苦労させられても他者と共に生きる、それを主が望まれ世界史が始まったのです。人類存在の理由は神の孤独感と人とともにある未来への希望です。


問  私は遠藤周作先生のイエスの生涯を読み感銘を受けました。そこにイエスが何故自らを神として表現し人々と関わられたのか、よく書かれていますしキリスト教は神の存在を否定しても価値ある文化だと思います。

答 現代人の誤解の典型例の一つです。ルナンがキリスト伝を書いて以来今日に至るまで「人間イエス」を描くことにキリスト教作家は腕前を競うようになりました。モーリャックも遠藤もそういった一人で、その内のカトリック側の人です。プロテスタントですともっとヒドイそれこそ、なんじゃいこりゃというのを書く名前は思い出したくないのもあれこれいます。彼らはイエス・キリストの教説の精妙な論理的整合性や、それがまた単に路上での対話を等して一糸乱れず展開される事自体に衝撃を受ける、といった才能の持ち合わせは全くありません。自分を投影し自分がこんな風に生き、こんな風に言うならこうだろうと自身の真情を吐露して、イエスの生涯などと僭越なタイトルで刊行するのです。私と会えば「セセイよろしくお願いいたします」といった類であり、「もう死ね」と言われても「へい」ってなものです。むしろパスカルのパンセをお読みなさい。編集の仕方によって二種類ありますが、どちらでもいいので通読なさい。それよりマシ。一段階上の視点で思考を展開する人です。「イエスの生涯」の嘘がよく見えてくると思います。パスカルは必ず自身の思索をイエス・キリストと人間との相違点に着眼するところから始める人です。


問 先生の大学でのキリスト教研究についてご紹介下さい。

答 私は花園大学文学部の学生でしたし、その後京大文学部キリスト教学専攻で4年間聴講生をしていたことはありましたが、それ以上関わっていません。学会等には出席しますが。
苦労して競争に打ち勝ちようやくにして教授になった者は学者としての聖書解釈に徹します。即ち現代の文化の枠組みに乗っ取ってその土台の上に、現代人として聖書をどう受容していけばよいだろうか、を研究しているのです。それがキリスト教職業研究者の社会的任務なのです。あくまで神の存在についての真相を解明しようと考えているわけではない。どこの大学の神学部も学内では小所帯で存亡の危機に瀕しているのに、「世界は七日間で神が作った・・・・かもしれない、というか可能性としては否定しきれないと思うわけね、云々」などと教えだしたら、講座を閉鎖され全員大学から追放になりかねません。そんな環境では神の存在は暗黙のうちに否定されそれに言及するだけで嫌われます。また大学のみならずキリスト教界自体が全体的にエキュメニカルな立場を常識と考え、ファンダメンタルな聖書解釈に立つ者を全員追放にかかり、神が実際に存在すると考える者は排除していきます。自分たちにとって危険だからです。宗教妄想者のテロ隆盛の今日、社会の視線が厳しいことも追い打ちをかけています。ですので私との接点はキリスト教関係の場合は語学、セム語の古代言語、聖書考古学に限定されます。私のような考えの者はいることすら難しいのです。大学の人たちは隅の方で言語的なこと、へんな文字をいじくっている私の姿しか知らないでしょう。だから私は問いかけます「君の学者としての良心はそれで満足なのか。君は一人で産まれてきて一人で死んでいくんだ。学位も何も付いてきてくれない。大学の下男にならず、男の学問をやれ」と。ティリッヒの著作を読むことをやめさせ、ピカソを学ぶことやボクシングジム、空手部への入門を進めます。理詰めではなくしなやかに神を感じ取る自由な感性の獲得、たとえ怪我をしてもどんなに強い相手であっても向かっていくハングリー精神、それが彼らを救うと思うからです。隣人としてそうしますが、大学自体は未来永劫何の希望もありません。大学の学問自体がつい四百年前にできた新興宗教です。そんなものはチンドン屋です。


問  全く初めてですがキリスト教の勉強の仕方を教えてください。

答  日本語訳聖書は地域のキリスト教専門書店やジュンク堂クラスの大型書店、アマゾンでも購入できます。新共同訳が良いでしょう。フランシスコ会訳、日本聖書協会口語訳、新改訳でも結構です。旧約も入り引照付きのものでないとだめです。とりあえずそれの通読が大事です。どこからでもかじりついてください。しかし最後には必ず通読してください。一文字も読んでいない部分があってはいけない。半分しか読んでいないなど論外です。絶対だめ。アウト。次の段階ではどう理解していくかの問題となり、体系的で大型の注解書は日本語のものでは新聖書注解(いのちのことば社)は、神の実体としての存在の可能性も視野に入れた立場からかいています。従ってある程度私としても勧められます。他の日本語のものは神の存在を一切否定する立場で書かれています。旧約新約聖書大辞典(教文館)、新聖書大辞典(キリスト新聞社)のどちらか、どちらでも買えるなら前者を購入し、解らない言葉が出たらその都度調べましょう。ただし神の存在を否定する立場ですので注意が必要です。旧約新約聖書語句大辞典(教文館)は網羅的なコンコルダンスです。必要に応じて購入しましょう。国内のキリスト教会の状況についてはキリスト教年鑑という年度版の冊子体で調べてください。こんなもん買わなくていい。図書館にあります。現代の神学思想が学びたい場合は多数入門書が出ていると思いますのでまずそれに目を通してください。例えばキリスト教組織神学事典(教文館)でもいいです。そののちに自分が惹かれる思想家の著作に当たりましょう。例えばティリッヒなら白水社から翻訳が出ています。唯くどいですが、全て神の存在を否定する立場ですから、私としてはおすすめできません。本の高いことには閉口しますが、神田に友愛書房というキリスト教専門の古書店があります。ただ値段設定も高価で必ずしもほしいものがあるものではない。賀川豊彦も創設に関わった老舗ですが、他の所は品数からしてだめだということでだけ勧めます。

問 根本主義について教えてください

答 根本主義ファンダメンタリズム、言葉を換えればキリスト教原理主義とは聖書は聖霊の導きによって書かれた無謬の書物だとする立場で科学的な批判は受け入れようとしません。なんとかキリスト福音教会というように福音と入れば福音派、広義の根本主義です。こういう人たちは教養がなく、唯文字通りに読み、今の時代との御心の違いも無視し、ひたすら自分には幸福な来世が保証されていると妄信します。そしてそのような身勝手な盲信を聖書的な信仰と考えており、その上神との距離感がさっぱり認知できず妄想的であり、しばしば宗教精神病になり入院する精神病者を出しています。他宗派に対し独善的に振る舞い、はなはだしきは仏教は悪霊の支配だと語った宣教師もいました。エキュメニカリズムの必要性を感じることさえできず、協調性が無く、騒々しい礼拝を行い、預言だ異言だ、奇跡だ聖霊だとピョンピョン跳ね回り目先を変えては人を幻惑させ、信者数を増やそうとしますが、むしろ減っているでしょう。無能な人間のクズで排除すべき集団です。狂信です。

問  真理を悟るということについて教えてください。

答 悟るということは、仏教では強調されますが、キリスト教においては、さほど強調されません。しかしながら、真の悟りはキリスト教の中にあります。真理はあなたがたを自由にする。と言われるように。またイエス・キリストが事あるごとに、悟りを強調しておられたように。また神を知ることは知識の初めである。と説かれている様にです。
しかしながら、日本におきまして、真理を悟るといいますと、その言葉の意味が、仏教的にとらえられているのです。仏教の悟りは、真実の悟りではなく、心身が一致したとする自らの感覚にすぎません。たとえばかなりの悟りを得たとする禅マスターに対し、特定の向精神薬を投与すれば、わずか1回の注射で彼の悟りを完全に破壊してしまうことができます。しかも、その後悟りの回復することは彼の生涯に2度とないでしょう。仏教徒は精神薬理学などちっとも理解していないのです。そのような悟りに何の意味がありましょうか。悟るというからには、それは悟りのない人に比べ、圧倒的に大きな知識を持ち、そしてその知識が、それ以降獲得される知識の基盤になり、それを知ると知らぬではすべてが変わってくる。そのような知識を獲得しているということです。それはキリスト教の神が存在するという知識であります。それを知っているということです。それこそ真理を悟るということであり、それ以外に真理を悟るという言葉を定義するべきではありません。仏教とはなんでしょうか。それはキリスト教の影です。仏教の悟りもまたキリスト教の影なのです。それゆえにこそ彼らは、無にこだわり、無から始まる世界観を作り上げます。それは実態を持たない自分たちの宗教に実態を持たせ、体系化させる技術なのです。釈迦、達磨から始まって仏教の開祖たちは、このように徹底的にキリスト教の影としての文化を形成してきたのです。開祖先達の偉大な努力は認めるとしても、現在の仏教徒は、それをことごとく悪用していると考えられます。そして彼らは何一つこういったことを理解することができないのです。キリスト教もある時代に仏教へ行くこと自体才能はゼロ、勘は鈍い、運は悪い、無理、駄目、最悪、末期ガン、もう終了です。
それ故仏教徒が悟りについて語ったことをほんとにしてはなりません。たとえば悟った後には平安が来ると考える人がいます。確かに平安はやってきます。悟ることができた。その中に自分の心が安らぐということがあるのです。しかしながら、実際にはそれ以前には想像していなかった疑問や混乱の中に投げ入れられ、精神錯乱を起こしてしまうこともあるのです。神の存在は平安だけではなく、混乱をもたらすのです。
そして悟り始めてから悟りを吟味し、整え、悟り切るまでに10年以上の歳月がかかります。キリスト教の神が存在するということを理解することから始まって、それについて疑問がなくなるまでには10年の歳月がかかる。その間に何度も揺れ戻しが起こって、自分の考えが疑われるです。神の霊と共に生きる経験によって悟りが深まっていきます。そしてその10年15年の歳月が付き、悟りがしっかりと心の中に定着すると、それは常識となり、それ自体は結構なのですが、今度はそれはそれで問題もでる。あまりにも人と思考のレベルが違い過ぎて人の心が理解できなくなる。なんでこんな簡単なことが分からないのだろうと、いつまでたってもキリスト教の神の存在を確信しな人について考えてしまうのです。かつての記憶がだんだんと薄れてしまい、人は簡単にそういうことを理解できると思い込んでしまう。そうした問題が発生します。



問 進化論と創造論のどちらが正しいかということを研究したいのですがどうしたらよいでしょうか。

答 まず第一に手に入る文献をそろえて通読しましょう。この問題は人類の起源ということでは形質人類学、生物の起源ということでは古生物学、地質学、地球の起源ということでは地質学、地球物理学。そして宇宙の起源という点では、宇宙物理学や量子力学に話が及んでいきます。
これらの全体を理解することは人間業ではなく、一部をマスターするだけでもかなり厳しいものがあります。その分野の専門家ならわかりますが、自分の人生の寄り道としてこれを勉強するとしたら、なかなか大変なことになるでしょう。そこを要領よく、何とかしっかりとこなしていきましょう。まず創造論側の教科書としては以下の書物があります。

*Morris.H The Biblical Basis for Modern Science BakerBH
著者のヘンリーモリスは創造論調査研究所の理事長で、長年にわたって創造論者として論陣を張りました。この著作は彼の理論の体系を学ぶことができます。
*創世記の記録 モリス著 宇佐神正海訳
これは同じ著者による一種の創世紀の注解です。創世紀のもたらすさまざまな疑問について、彼なりに答えています。
*Morris.H The Revelation Record BakerBH
これは同じ著者によるヨハネ黙示録の注解です。ヨハネ黙示のもたらすさまざまな問題に彼なりに答えています。
*反進化論 デントン どうぶつ社
筆者はオーストラリアの医師であり、個人的に進化論を研究していた科学者です。彼は自らの医業のかたわら、突然にこの論争に参入してきて、分子生物学的視点から進化論を論破しています。
*
筆者はイギリスの弁護士であり、あるとき病床にあり、その時に進化論を学んだ経験から、こうした思索をまとめました。筆者のその著作を書いた動機は自分が進化論を相手に裁判をもし行ったら、勝つことができるだろうと考えたという点にあります。すなわち絶対の真実と考えていた進化論は証拠に乏しく、突っ立っている死体、代案無き仮説にすぎないということです。そのような発見をしたことから、彼はこうした研究に入り込んでいったのです。
他に
*進化論の基盤を問う シュペーマン 東海大学出版会
*キリンの首 ヒッチング 平凡社
*種類に従って ネルソン 伝道出版社
*崩壊する進化論 宇佐神正海 マルコーシュ・パブリケーション

次に進化論の教科書としては以下の書物を推薦いたします。
*リーキー 人類の起源 講談社
まず第一に読みたい本です。これは著名な人類学者リーキーによるビジュアルな美しいとても印象的な本です。体系的ではないのですがこれによって人類学の研究の第一線の息吹を感じることができるでしょう。
*人類学 矢田大雄 八千代出版
これは整理された形質人類学の教科書です。もっとも一般的なものであると思います。
*講座 進化 1生命の誕生 3古生物から見た進化
これは東京大学出版会が刊行している進化論の教科書のシリーズの一つです。非常によくまとまったしっかりしたものです。
* ホームズ 一般地質学 東京大学出版会
著名な地質学者ホームズによる体系的な教科書で、基本を学ぶことができます。
*宇宙と生命のタイムスケール 原田 大日本図書
これは上記分野を統合した進化論の教科書です。まあちょっとした本ですが全体の概略をつかむためにはなかなか重宝です。
*放射化学概論 東京大学出版会
しばしば問題となる放射年代測定についても少し、またその基礎になる理論について丁寧に記載しています。
*宇宙地球科学 東京大学出版会
*宇宙と地球の科学 大日本図書
地球および宇宙の起源を考えるうえで重要な問題をまとめています。

それでは以上の著作をすべて突き合わせて、検討したら、その次には一体どうすればいいでしょうか。それはやはり化石をたくさん持っている、つまり金持ちのたとえば、京大の理学部のような学校となにがしかの関係をもち、コツコツ骨でもいじって勉強するよりほかありません。
しかしながら、そこに勤めてるどんな学者もそういった人の立場を理解しませんし、大学に立ち入ること自体を拒否してくると思います。それはここのみならずどんな大学でもそうであって、そういう考え方を捨てたら教えてやってもいいかな。と言われると思います。
しかしながら、創造論調査研究所に留学することは、まったく進めません。彼らは悟りではなく自分の思いこみをもち、社会を洗脳することを目的としていて、無心に科学する心を忘れているのです。